チャオログ

もろもろのはなし。文脈から切り離されたなにか。思考のログ。8割はうそ。

新潮45事件が教えてくれた、広告宣伝の仕事の存在意義

広告宣伝の仕事をしている。インターネット上だと嫌われがちな仕事のひとつだ。

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私はこの業界で働きながら、ずーっと、「大義のない仕事だなあ」と思っていた。この仕事は基本的には代理業であり、どれだけ汗かいて頑張っても、そのCMだかキャンペーンだかはクライアントの手柄になる。世間の人は「auの新しいCM面白いよね!」ということはあっても、そのCMを実際に作っている会社の名前などに毛ほども興味がないだろう。というか、基本的に、どの会社がそのCMを作っているかなど世には出ない。

そして広告代理店に入ると、どのクライアントを担当するかはほとんど運で決まる。メーカーのひとなら「この商品は世の中をこんなに便利にする!」というような大義をもって働けるのだろうけれど、私たちはこのクライアントの担当を外れたらそれまでだし、失注したらほんとに終わり、さあ次のクライアントへ…というのの繰り返しで、じゃあ私の仕事そのものにどんな大義が??とずっと思っていた。

 

中には「自分のアイディアが世の中を動かすことが面白い」という動機でこの業界にいる人もいる(いわゆるクリエイティブ職の人だ)のだけど、それは本当に尊いと思うけれど、職種が違うとあんまりそのような理想を掲げ続けることはできないし、あと、「自分のアイディアで世の中を動かしたい」のはまああるかもしれないけど、義があるかというとよくわからない。私は仕事に義を見出したいタイプなんだと思う。この仕事を通じて社会がよくなるとか、救われる人がいるとか、そういう、社会に貢献しているという実感が。

 

で、大義のない仕事だなあとずっと思いながらもこの業界で働き続けた矢先に、新潮45という事件が起こったのでした。

president.jp

このことはLGBTコミュ二ティのひとたちはもとより、出版業界に携わるひとたちに激震を走らせ、ものすごい議論が巻き起こっていた。出版業界、まじで斜陽なんだな…と思う。本を買う人は年配の人でつまり保守の傾向にあって、若いリベラルな人は本よりデジタルなのかなと、浅い考えだけどそんなことを思ったりした。

 

みたいなことを悶々と考えていたら突然はっとした。わたしの、仕事は。「本当にいいもの」を広めるための仕事なんじゃないか?と。広告宣伝やPRの仕事の意義は、メーカーがいいものを作ったその先にある。どれだけものがよくても、それを世の中に伝えないとその商品は売れない。で、私は新潮45事件を見ながら思った。人は弱くて、「自分に都合のいいこと」しか摂取しなくなっちゃうんだなと。特にこのSNS時代、自分が見たい情報だけを摂取できるようにどんどん構築されていっている。オウム真理教を信じた人もそうで、”救われたい”という気持ちを持った人が、あえて選んだのはこの新興宗教だったのだけど、もっと他の選択肢を知っていたら?と思うのであった。孤独や諦観を抱えて生きる人たちがすがるものが、まやかしや虚構を孕んだうそっぱちであっていいはずがないけど、そういうものって都合のいいことだけを聞かせて、弱い人にすりよる。極右向けの雑誌、スピリチュアル、子宮教、民間療法、情報商材、なんでもそうだけど、偏見にまみれた言説を信じたい人、うそだけど耳障りのいいものを求めている人、てっとりばやく救われたい人、そういう人に、虚構のコンテンツは平気で現れて、そしてお金を払わせる。売れる。売れるからもっと出る。でも本当は、耳に痛いことでも、自分の信じたいことと違うことでも、社会をよくするものや誰かを救う可能性のあるものを、ひとつでも多く、一人でも多くの人が、摂取するべきなんじゃないの?

 

こういうのとかも。

wezz-y.com

 

そのために私たちの仕事はあるんだと思った。人は弱くて、そういう、耳障りのいいまやかしをすぐ手にとってしまうから。でも本当は人生はもっと複雑で、たくさん傷つくかもしれないけど、学ばなくちゃいけないことはたくさんあるし、信じたいことと信じるべきことは別のことかもしれない。私だってそうだ。だから、広告する。ひとの目に、耳に届くように。いじわるな嘘に、負けてはいけない。ひとつでも多く、本当に世の中に届くべきものを。ああ、ようやくひとつ大義がわかったなあ。

がんばるぞ。働きましょう。