チャオログ

もろもろのはなし。文脈から切り離されたなにか。思考のログ。8割はうそ。

真也がダサいのではなく片想いで空回ってる人は全員ダサい/私はバチェラー3の何を好きだったか

真也と恵が結婚したらしい。おめでとーーー!!!

 

恋愛リアリティ番組史に残るお騒がせカップル、真也と恵。私はバチェラーの中でも3がダントツおもしろくて好きで、その「おもしろい」には、「ふざけんな」「は?」「時間返せ」「なんやこれ」「感情どこやればいい?」みたいなのも含めての「おもしろい」ではあるんですが、そもそもリアリティ番組ってあーだこーだ文句言うためのエンタメだから…

 

けど世間で言われてるよりかは真也と恵には好意的っつーか、同情的というか、「せやな…」「幸せにおなり…」と思っている女でもあります。

 

私がバチェラー3の1番面白いと思った部分は「片想い描写がリアルすぎる」という点です。

バチェラー3は途中から1や2と趣向が変わり、「真也の本性」を視聴者が身ぐるみ剥がしていく(要は、本当は低スペ男じゃん?っていう)遊びに転じてしまって、私も放送当時はそういうインターネット探偵たちの調査内容を血眼で追っていたのでそれもエンタメではあったのですが、もう1つのおもしろさは、真也が「選ぶ側」から「選ばれたい側」に転じたことで起きてしまった、「恋愛は片想いしてる方が立場が弱い」という現実をまざまざと見せつけてくれたことです。

これは非常にグロテスクな楽しみ方でもあったと思うんですが、私がここをおもしろいと思っていたのは、「どうにもならん片想いで一生懸命になった経験がある人は真也に共感できるんじゃないの?」と思っていたからです。

 

恋愛は美しく楽しい部分もありますが(バチェラーはそこを強調している)それは好きな人と同じくらい想いあっていた場合の話で、明らかに自分だけが相手を好きなとき、なんとか相手を繋ぎとめようともがいて苦しかった経験がある人はいませんか?あるいは逆の立場で、「この人、自分になんでも合わせてくるじゃん…」というのがあからさますぎて、どんどん冷めていった経験は?

 

私はどちらの立場にもなった経験があり、しかもバチェラー3の放送当時にそういったシチュエーションがあったため、「こ、これか~~~」と思っていました。

あんなに神戸にこだわっていた真也が、恵に合わせて東京でもいいと言い出したこと。食の好みなんて小さいことやと相手を希望を聞き流そうとしたこと。

真也に対して辛辣な態度をとる恵。「苦味じゃなくて酸味でしょ」と言い放てる恵。

 

最初、恵はモテる小悪魔だから真也に対してもキリッとしてるのかな~と思ってたんですけど、そうじゃなくてシンプルに「好きじゃないから」どんなことでも言えたんだと思います。

一方の真也は恵を好きすぎて支離滅裂になっていく。自分の条件と合わないはずの女を前に、自分なりに理屈を捏ねて合わせようとする。

 

私は、冒頭3話くらいまで、真也のことをめっちゃかっこいー!と思っていたんです。関西弁で、都会風の出で立ちに、くぼりんや林太郎と違って「俺にふさわしい女は誰や?」的にやや俺様陽キャとして振る舞っていたこと。関西人らしく、自分から話しかけようとしたりするちょっとおもしろそうなとこも好きでした。

なのに!なのに!終盤、恵に冷たくされ続けてすがるようになる真也、どんどんかっこよくなくなるんです!!顔にも動揺が出まくるし、態度もめちゃくちゃ。これを見ながら視聴者は「真也どうした??」ってなるわけなんですけど。

で、私は「完璧男でも、片想いが空回ってるときってこんなにダサくなるんだ」と目からウロコの気持ちでした。余裕綽々でカッコつけられていた真也はどこへ。恵の前だとその仮面はいとも簡単に剥がれ、必死にすがる1人の男の子がそこにいました。

なんだー、金持っててもフランス語喋れても外車に乗ってても、片想いしてる人がダサいのってみんな一緒なんだ、みたいな。

だから私は思っていたのです、真也単体がダサいんじゃなくて、実らない片想いしてる人ってみんなダサくてイタいよねっていう…

 

結局力技で成就させたのがほんとにすごいよなぁ。真也って、「完璧男ですけど?」って振る舞って女の子の方から来させるより、女の子をお姫様扱いしてとにかく優しく尽くすことで振り向かせる恋愛の方が圧倒的に得意だったのかもな。

 

もうひとつのすごいところは、あそこから恵が真也をちゃんと好きになったことだと思います。バチェラー放送期間内では、どう見ても恵は真也のことを好きではなく、なんならちょっと見下してたかなぁと思うところさえありました(真也はちょっとおばかさんなので)。

真也はバチェラーではありましたけど結果的にダサさ露呈しまくりだし、世間からも叩かれ、決して真也と付き合ってることってステータスにならなかったと思います。むしろ、クソカップル…って思われまくり。

だから最初は恵、「選ばれた私」が好きなのかな?と思ってたけど、それだけで結婚までは絶対無理だと思うんです。世間になんて言われようと、真也本人と向き合い、ちゃんと好きになる。んで、結婚する。相当芯が強くないと出来ないと思います。恵は承認欲求があまりない人なんだと思いました。自分の気持ちに正直な人。周りからどう思われても大丈夫な、自己肯定感の高い人。

 

自己肯定感の低そうな真也にはさぞまぶしく見えたでしょうなぁ。

 

2人のえらいところ、あんまりSNSにマメじゃないとこだと思います。誹謗中傷から離れられるって才能だからさ。

おしあわせにね。

今思ってることはとにかく今記録しておかなくちゃ

私がもともとはてなブログを始めたいと思った大きなきっかけのひとつは、オタク文化圏の人が好きなものを好きなだけ語る場所に憧れたからというのがあります。ジャニヲタの人の、そのアイドルのことをいかに好きかを語る熱量と文章力に圧倒されて、読むのも好きだったし自分も書いてみたくて。

手越くんの一件があって、それについてまたまたすごい文章力で愛を綴っているブログやツイートを読むのも好きなんだけど、同時に、2020年4月以前、つまりこういうことが起こる前に、手放しで手越くんへの愛を叫んでいたブログを最近ちまちま読んでいました。悪趣味だなあって思われるかもしれないけど、私的には「そのときにしか書けなかった文章」を掘り起こすのが好きなんだと思います。そのときに書いた気持ちがそのまま圧縮されていて、読み返すとzip解凍みたいにそのときの気持ちが生のまま取り出せるみたいですごい。そのときに思っていたことって何か起こってからはもう絶対に正確な言葉では言い表せないから。同じ「好き」でも、「でも好き」「まだ好き」「嫌いになれない」「前よりもっと好き」「この部分が好きだったけど今は違う部分が好き」みたく、形が変わった好きになることはたくさんある。

 

同じ「好き」でもレイヤーが変わった「好き」になることはあるし、好きと嫌いの間にグラデーションはかなりあるし、人生は不可逆だし。だから私も今思ってることは今書いておきたいなーとしみじみ思いました。インターネットに自分の書いたものを晒すからには、素人すぎて書けないな…と思って躊躇してしまうこともたくさんあるけど、でも、そのとき書かなかった気持ちって大体風化していく。そのときの気持ちはそのときの自分にしか書けなかったのにって思う。もったいないことしたな、って思うことも多くて、だから、わからないなりに語りたいこと、よく知らないけどこの部分についてはこう思ってるって残しておきたいことも、なんらかの形で記録しておきたいなと思った(このサブブログはそういうことを書くために作ったんだった)

 

話はちょっと変わるんだけど。

私は人が何かを強烈に嫌いになるとか、すごく好きだったものに「飽きる」という人間の心理に前から興味があって(自分自身にそういう経験がいくつかあるからです)、そういうことをきちんと言葉にしてる文章って注意深く探さないとインターネットでは見つけにくい。好きなものは好きなだけ語っていいけど、何かを嫌いであることについて上手に書くことって難しいしあまり共有されてないのかなと思ったり。

でも「私はなんでこれが嫌いなのか」をうまく語れるようになると、同じようにそれを嫌いで困ってる人の助けになるかもしれないし、適切に感情を整理することで、その嫌いなものに対してどう冷静に向き合うかの補助にもなる気がする。人間は怒ったり諦めたり嫌ったり飽きたりする生き物だと普通に思ってて、でもそういう感情ってあまり(特にインターネットでは)歓迎されないから、だからこそ私は他人のそういう感情の動きをもっと知りたくて、強く興味がある。自分と同じような経験をしたことがある人を探して、うまく言語化してくれている人のエントリやツイートを見て救われたことが何回もある。「自分だけじゃないんだ」って知れるだけで悩み事が悩み事ですらなくなることって結構あると思ってて、そういうテキストにもっと出会いたい。

 

好きな気持ちも、嫌いな気持ちも、その中間にある気持ちも、今の自分にしか書けないんだよなあ。今日好きな映画も5年後観たら全然好きじゃないかも、逆も多分ある。だからこそ書いておきたいな。

激務の人はなぜ激務アピールをしてしまうのか?

「寝てない自慢をする人は本当は無能」「残業ばかりしている人は効率が悪いだけ」のような言説を聞くことはよくあるし、実際当たっている面もあると思うが、実際に何をどうやっても深夜に及んでしまう仕事があるというのを現実を生きる僕は理解している。どれだけ有能な人であっても仕事を詰め込まれればそりゃ深夜まで会社にいる羽目になる。こればかりは会社の社風や業界の違いにもよるところがあるので、「さっぱり理解できない」人もいれば「わかる」と思う人もいるのではないか。

前の会社で、毎日日付が変わるまで働き、家に帰ったら寝るだけ、朝起きてまた会社に行く…という「起きてる時間のほとんどは仕事している」状態が続いたとき、「死にたい」を超えて「全員殺す」と思っていた。その経験のおかげでひとつわかることがあって、睡眠不足や極度の忙しさは簡単に人の思考を変えてしまうということだ。僕は「性格」なんてものは本当はなくて、基本的におだやかな人であろうと、精神的に追い詰めたら多かれ少なかれ心に余裕がなくなり言動がきつくなることはあると思っている。

だから激務の人が「激務なんです」と表明する気持ちが僕にはわかる。自虐しないとやってられないという気持ち、少しでもユーモアを口にして心を明るくしたい気持ち、それから「大変だね」「すごいね」と労わられたい気持ち。あと、苦しいことを紙に書きだす人がいるように、口にして吐き出すことで多少は楽になるという気持ち。

 

なのに、だ。ここのところ僕は、上司の「激務アピール」に参っている。上司は有能だし、事実として激務だ。なのにいちいち「今日何曜日だっけ?(土日も出勤してるから日付の感覚がわからなくなっちゃって)」とか聞いてくるのにイライラする。お前が今開いているPCに曜日くらい書いてあるだろ!!!!!!!!!!!!!!!!!なんのアピールなんだよと思ってしまう自分もいるが、「とにかく何か口に出して人とコミュニケーションをとることで心を静めたいんだろうな」と理解できる自分もいるのだ。

たいへんだなー、と思う。僕は向上心がないし、上司を助けられるスキルもないので、手伝いましょうか?なんて言わないし言えない。けど曜日も教えたくないので「PCの右下に出てますよ」という。冷たいかな。でも、おじさんが疲れたアピールをしてくるとき、そこにいるのはただの疲れたおじさんなのだ。全然かわいくないんだもん。僕もおじさんになったときには、疲れたアピールをしないおじさんになろう。その前に、おじさんがこんな体に鞭打って働かなきゃいけないドカタな仕事から卒業しなくては。

 

 

 

 

 

上司ロシアンルーレット

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あるいっとき上司だった人のことを久々に思い出した。最後まであまり話したことのない上司だった。優しい人だったように思うが、あまりいっしょのプロジェクトに入ることがなかった。性別のちがいや、年の差もあって、私は他の若手男性社員ほどはかわいがられてなかったような気もする。逆にいうと、若い女の子を無理に飲みに誘ったりしない思慮深い人だった。

私とそのひとの関係は複雑で、まぎれもなく上司と部下だったのに、関係性を築いてるような築いてないような感じだった。私は彼を上司としてとても尊敬していたし信頼していたが、なんかずっと距離感が縮まらない感じにもはやウケていた。けどいろんな人からあのひとはおまえのことかわいがってるぜ、というようなことを言われて、どこがやねんほぼ話したことないわいって返すのがおきまりのネタみたいになっていた。思春期の娘みたいなかんじ?いや例えとして全然正しくないけど。

私が職場を離れる日、飲み会の帰りにタクシーで送ってくれて、何を話したかも覚えていないけど、その二人の時間は特別だった。別れるのが寂しかったけど、二人だけで話したいこともそんなになかった。私の家の前について、じゃあこれからもがんばるんだよと言われて、別れた。そのとき、(全然ラブリーな意味とかじゃなく)一瞬だけ特別な空気が流れて、びっくりしたけど心のどこかでそういう別れになる予感があった。最後のときにためらいなく互いの予感を掬い上げることができるのがこのひとのモテの才能なのかなとぼんやりと思った。いままでにも何人か、「これが最後の別れになる」という瞬間に、ぐっと体温を引き上げる別れ方をしたひとたちのことははっきりと覚えている。それが中学生のときでも、大学生のときでも、大人になってからでも、さよならが印象的だったひとのことは忘れることができない。前述の上司の場合、「ただの職場の人」にも関わらず(実際本当に仲良くなかった)、こんなさよならの仕方をされたので私の心には切ない思い出として刻まれてしまった。特にお世話になってもいないので日常で思い出すことはほぼないけど、今後いろんな上司と出会うたびに彼との別れの刹那が頭をよぎるのかもと思う。

 

私の男 (文春文庫)

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不安の在処

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ずっと不安だ。真の孤独には程遠いとわかってはいても、なんとなくずっと孤独死のイメトレをしている。この不安感の正体を私は自分でわかっていて、仕事のことで悩みが尽きないのであった。情けないと自覚している。

 

私が不安の大部分は仕事が原因なのだけど、そもそも孤独だからなんだろうと思っている部分も少しあって、実家で家族と住んでいたときさえ孤独だと感じることがあって怖かった(家族と特別仲が悪いわけではない)。あるとき、3連休なのに何の予定もなかったときがあって、3日目に自分の部屋でふいに涙が出てきて、キッチンにいる母に「ねえ、孤独なんだけど…」とぶちまけてしまったことがあった。母は「家族と住んでるのに!?」と驚きながらも、「でもねえ、なんかわかるよ。家族がいても孤独じゃないわけじゃないんだよね」と、母が口にするには珍しく本質的な(というか私が求めていた答えに近いもの)回答をくれた。一人暮らしをしていたときは、別の意味で寂しかった。家族にしか埋められない孤独もあるし、他人にしか埋められない孤独もあると知った。この話を何人かの先輩にしたら、既婚の先輩たちが「人はみんな孤独よ」って言ってくれた。「あなたが孤独なのはパートナーや一緒に住む人ががいないからじゃないよ。パートナーがいたらいたで、次は『その人に会えないさみしさ』みたいな新しい孤独感が生まれるだけ」と。さみしいなとも思ったけど、結婚しているひとでさえそんなこと言うなら私が今こんなに孤独で不安なのはそんなに変なことじゃないのかもと思えて妙に安心したのを覚えている。こんなちゃんと働いていて、ちゃんとしたパートナーと暮らしているひとたちも、さみしいとか思うんだなと。

 

一人で生きていける強さがあればなと思う。学生時代、私含め周りの子みんな一人暮らしだったので、「一生ひとりで生きていきたい」「今更他人と暮らせない」みたいなことを口々に言っていたのだけど、この年になるとみんな言うことが変わってくるねえ。東京タラレバ娘を描いてる東村アキコ先生は偉大だ。妙齢女性の言う「結婚したい」は「死にたい」って意味、と言っていたのは峰なゆかさんだったか。すごいわかる。

死にたいっていうか、「ハワイに住みたい」みたいな意味なんだよな、「結婚したい」って。

 

考え事を文字にすることをしたい。意味なんてないことをちゃんと書きたい。時間がない。明日が来てほしくない。けど、余生長い…80歳とかまで全然生きたくない……全然明日死んでいい……

職業病なのかなんなのか

高級アパレルで接客業をしてる友達が、「休みの日は家に引きこもって、ただただ死んだように倒れてる」という話をしていて、「違うの。聞いて。言い訳させて。私は仕事中に『初対面の人と喋って仲良くなる』をフルパワーで何時間もやってるの。人生におけるコミュニケーション力の総量をそこにつぎこんでるから、休みの日にまで人と話すパワーなんてどこにも残ってないの」と言っていたのが面白かった。

 

わかる気がする。

 

たしかオリラジの藤森くんも、チャラ男キャラ最盛期だったときは、仕事でウェーイ☆ウェーイ☆するかわりに家では灰のようにうなだれてるって言ってたな。

 

私にもそういうのあるかなーと思って考えてみたんだけど、人は何を見てものを買うか…ってのを一日中考えすぎて、CMで見たアイスそのまま買っちゃったりするな。イージーな消費者かよ。

 

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新潮45事件が教えてくれた、広告宣伝の仕事の存在意義

広告宣伝の仕事をしている。インターネット上だと嫌われがちな仕事のひとつだ。

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私はこの業界で働きながら、ずーっと、「大義のない仕事だなあ」と思っていた。この仕事は基本的には代理業であり、どれだけ汗かいて頑張っても、そのCMだかキャンペーンだかはクライアントの手柄になる。世間の人は「auの新しいCM面白いよね!」ということはあっても、そのCMを実際に作っている会社の名前などに毛ほども興味がないだろう。というか、基本的に、どの会社がそのCMを作っているかなど世には出ない。

そして広告代理店に入ると、どのクライアントを担当するかはほとんど運で決まる。メーカーのひとなら「この商品は世の中をこんなに便利にする!」というような大義をもって働けるのだろうけれど、私たちはこのクライアントの担当を外れたらそれまでだし、失注したらほんとに終わり、さあ次のクライアントへ…というのの繰り返しで、じゃあ私の仕事そのものにどんな大義が??とずっと思っていた。

 

中には「自分のアイディアが世の中を動かすことが面白い」という動機でこの業界にいる人もいる(いわゆるクリエイティブ職の人だ)のだけど、それは本当に尊いと思うけれど、職種が違うとあんまりそのような理想を掲げ続けることはできないし、あと、「自分のアイディアで世の中を動かしたい」のはまああるかもしれないけど、義があるかというとよくわからない。私は仕事に義を見出したいタイプなんだと思う。この仕事を通じて社会がよくなるとか、救われる人がいるとか、そういう、社会に貢献しているという実感が。

 

で、大義のない仕事だなあとずっと思いながらもこの業界で働き続けた矢先に、新潮45という事件が起こったのでした。

president.jp

このことはLGBTコミュ二ティのひとたちはもとより、出版業界に携わるひとたちに激震を走らせ、ものすごい議論が巻き起こっていた。出版業界、まじで斜陽なんだな…と思う。本を買う人は年配の人でつまり保守の傾向にあって、若いリベラルな人は本よりデジタルなのかなと、浅い考えだけどそんなことを思ったりした。

 

みたいなことを悶々と考えていたら突然はっとした。わたしの、仕事は。「本当にいいもの」を広めるための仕事なんじゃないか?と。広告宣伝やPRの仕事の意義は、メーカーがいいものを作ったその先にある。どれだけものがよくても、それを世の中に伝えないとその商品は売れない。で、私は新潮45事件を見ながら思った。人は弱くて、「自分に都合のいいこと」しか摂取しなくなっちゃうんだなと。特にこのSNS時代、自分が見たい情報だけを摂取できるようにどんどん構築されていっている。オウム真理教を信じた人もそうで、”救われたい”という気持ちを持った人が、あえて選んだのはこの新興宗教だったのだけど、もっと他の選択肢を知っていたら?と思うのであった。孤独や諦観を抱えて生きる人たちがすがるものが、まやかしや虚構を孕んだうそっぱちであっていいはずがないけど、そういうものって都合のいいことだけを聞かせて、弱い人にすりよる。極右向けの雑誌、スピリチュアル、子宮教、民間療法、情報商材、なんでもそうだけど、偏見にまみれた言説を信じたい人、うそだけど耳障りのいいものを求めている人、てっとりばやく救われたい人、そういう人に、虚構のコンテンツは平気で現れて、そしてお金を払わせる。売れる。売れるからもっと出る。でも本当は、耳に痛いことでも、自分の信じたいことと違うことでも、社会をよくするものや誰かを救う可能性のあるものを、ひとつでも多く、一人でも多くの人が、摂取するべきなんじゃないの?

 

こういうのとかも。

wezz-y.com

 

そのために私たちの仕事はあるんだと思った。人は弱くて、そういう、耳障りのいいまやかしをすぐ手にとってしまうから。でも本当は人生はもっと複雑で、たくさん傷つくかもしれないけど、学ばなくちゃいけないことはたくさんあるし、信じたいことと信じるべきことは別のことかもしれない。私だってそうだ。だから、広告する。ひとの目に、耳に届くように。いじわるな嘘に、負けてはいけない。ひとつでも多く、本当に世の中に届くべきものを。ああ、ようやくひとつ大義がわかったなあ。

がんばるぞ。働きましょう。